2011年3月15日火曜日
帰宅難民情報関連追加
14:46にメール投稿したのですが、採用されなかったのでここに残しておきます。
---------------------------------------------------------
RN:ねぎにん
初めて投稿します。
自分は地震当日、高崎線がさいたま市の鉄道博物館付近で停車し、そこから北鴻巣駅までおよそ7時間、25kmくらい歩きました。
詳細はブログで書きました。
http://karamori.blogspot.com/2011/03/blog-post.html
帰宅難民は直接被害より見た目の地味さで、当事者であっても深刻さを認識しにくい面があると思います。
特に地震当日の自分が歩いた地域は、交通手段・通信手段麻痺の上に停電だったので、屋内への避難ができず、自販機(停止)で温かい物を買うことができず、歩いて暖を取るか、疲労がつらくて寒さをとるかという選択を迫られました。
一刻も早く帰宅したいという気の焦りや、自分の体力の過信から、とにかく歩けば良いという判断をしがちですが、温かい場所が確保できれば、体力を温存するのも重要です。簡易な雪山くらいに考えたほうがよいです。
また、これから長距離歩く可能性がある人に向けては、信号機が止まって、交通整備員もいない真っ暗の交差点はかなり危険です。車のドライバーも渋滞等で気がたっている可能性もあり、歩行者も体力を消耗している状況では、とっさに動くことができません。車道を渡る場合は、周囲をよく確認し、余裕をもって歩いたほうがよいです。
また、他の方もおっしゃていましたが停電してる場合、道に迷いやすくなったり、標識や公衆電話など、周辺の情報を見落としがちになります。人とあったらできるだけ情報交換したほうがよいです。人としゃべると少し安心できます。
あと、周囲の人へは、真っ暗な中をひたすら歩くのは精神的な不安もかなりあると思います。感情的になっている人がいても、寛容に対応をしてほしいです。
以上
-------------------------------------------------------------------
※メール投稿した文章から誤字など修正しました。
2011年3月13日日曜日
帰宅困難者の状況について
実体験した人とそうでない人に、けっこう認識の差にあるように思ったので自分の体験@埼玉を書いておく。
■地震発生直後~宮原駅
自分は、11日の地震発生時高崎線に乗っており、緊急停車で地震を認識した。
宮原駅と大宮駅の間の、鉄道博物から程近い所で停車した。
車内放送にて、地震の影響でJR全線停車したこと、安全確認作業にかなり時間がかかりそうなこと、
電源確保のため(だったかな?)車内灯と暖房を切ること、などが順次告げられた。
約一時間位たって、運転再開の目処が立たないため、車外に誘導するとの放送があり、電車を降りた。
そこから宮原駅まで歩き、食料と携帯の予備電源を購入。
携帯は全くつながらなかったので、公衆電話から親に安否の確認の電話をした。
最初はしばらく待とうかとも思ったのだが、JR職員やTwitter等からの情報を鑑みて歩くことにした。
■経過(宮原~北鴻巣)
目的地は埼玉県のかなり北部。
宮原から中山道を道沿いに北上し、目的地までは歩きで辿りつけなくても、
途中で連絡がついたところで迎えに来てもらうつもりでとりあえず出発した。(18時半頃)
桶川あたりから、予想以上の停電状況で、なかなか公衆電話を発見できなかった。
※いくつかの公衆電話は発見したが、お金を入れても出てきてしまうのを故障だと思って、スルーしてた。
すべて停電しているので、寒かったけど屋内に避難できず、自販機も止まっているので温かい物が確保できず、
暖を取るには歩くしかないという状況の中、結局鴻巣駅まで歩いた。
鴻巣駅で、公衆電話が無料で使える状態であることを教えてもらい、緑の公衆電話から親と連絡を取り迎えに来てもらえることになった。
ただ何時間かかるか解らないということだったので、その間もう一駅歩くと言って、北鴻巣駅で待ち合わせることになった。(23時頃)
鴻巣駅から北鴻巣駅に出発したところで電気復旧していることに気づいた。
さっそく自販機のあったか~いを買ったがぬるかった。
この辺からは、自分の失敗もあるのだが。
北鴻巣駅入り口の案内が17号沿いになく(もしくは暗かったので見落として)、いつの間にか通り過ぎて吹上駅まで歩いてしまった。
吹上駅に着いたら、グレーの公衆電話しか無く、これがことごとく家に繋がらなかった。 (12日午前1時半頃)
さすがに歩いて北鴻巣に戻る気力はなく、たまたま一台いたタクシーに乗って北鴻巣駅まで行った(一駅分くらいの持ち合わせはあった)。 ちなみに、タクシーは浦和から来たと言っていた。
そこでやっと親と合流でき、無事家まで帰り着くことができた。(午前3時頃)
■途中で見たもの・人
・電車の乗務員に「JRはタクシー用意してくれるんですか?」と聞く人
・JRの職員に「万全の対応でない」ことを責め立てる人
・信号機・街灯・コンビニ等お店全般・自販機など、車のライト以外明かりがまったくない国道17号線
・止まっている信号機にジェネレータをつないで運用しているところもあった
・上下線ともすごい渋滞、とくに上りが全然動いてなかった。
・交通整備の人はかなり命がけ
・信号機が止まってる、交通整備の人もいない渋滞の交差点はかなり危険
・交通整備してる人の横の横断歩道で座り込んじゃう人
・歩道の色んなところで、腰掛けたり、座り込んでる人
・真っ暗な駅構内で普通につば吐く人
・真っ暗な駅構内に落ちてる沢山のゴミと吸殻
・真っ暗なベンチの横で立ちションする人
※これは我慢の限界だったと思われる
・「北鴻巣はこっちで合ってますか」と聞かれ「自分も向かってるんです、多分こっちだと思うんですけど」と答える
・「避難所はここから遠いですか」と聞かれる「ちょっとわからないです」と答える
・「JRの人はまだいるかな」と聞かれ「もういないと思います、シャッターが閉まってる」と答える
・北鴻巣駅、吹上駅にはそれぞれ、確認できた範囲で数人ずつくらい、帰宅難民らしき人がいた。
・鴻巣駅には恐らく数十人はいた。
■分かったこと、思ったこと
・帰宅難民の全体の人数や状況を正確に把握するのは結構難しいのではないかと思う。
・歩き
革靴はとにかく歩きづらい。履き慣れてないのもあったけど、スニーカーで歩く時とは違う筋肉使ってる感じがして。普通に歩く以上に疲れた。
歩いてさえいれば体は温まるが、疲労と寒さどちらを取るかという究極の選択を迫られ続ける。
・JRの対応について
ニコ生の地震特番でで猪瀬副都知事も問題視していたが、JRは各駅すべてシャッターを閉じて運転見合わせの張り紙をしていた。
これは自分の見た範囲でも鴻巣駅、北鴻巣駅、吹上駅でそうだった。
電車の運休はともかく、このシャッターは周辺の情報や現在の状況さえわからず、絶望感に拍車をかけた。
ただ、上の方で書いた人のように、こんな状況でさえ高いサービスや「万全の対応」みたいな理不尽な要求をする人を相手にしなければならないという意味では、
JRだけじゃなく公共交通機関の人には同情せざるを得ない部分はある。
・会話と安心
交通と通信手段が麻痺したうえ、寒さと疲労とだったので、かなり不安感があったと思う。
途中で携帯の充電切れたけどTwitterでの反応や、何より対面でちょっとした会話したりするだけで、安心する。
・感情的になってる人をあんまり責めないで欲しい
遠くまですべて真っ暗な国道、あれを見たら大人だって泣く人は泣くし、笑う人は笑う、と思う。
感情的になってる人をあんまり責めないであげて欲しい。
まずは相手の状況を確認して欲しい。
共有前提が全然違うかもしれないことに敏感であって欲しいと思う。
※これはとくに、報道のみから震災の情報を得てる人に言いたい。
自分も電話で、親に「寒くないか?」と聞かれて「寒いに決まってるだろ!」と怒ってしまった。
けど親は、停電で何時間も温かいものが何も無い状況であることなんか知らないし、
「寒くないか?」なんて普通の質問じゃないかと、後から思った。
・困ってる人は画面の向こう側だけにいるわけじゃない
家に戻ってきてから、会う人、会話する人、微妙に会話のピントが合わない。
TVなどで、最低最悪の状況が伝えられ、そればかり見ているからなのかもしれないが、
報道されてない人は全員無事というわけじゃない。
いきなり、犠牲者の数とかマグニチュードとか原発の危険性の話ばかりされても困る。
当事者意識がもう完全に違ってしまってるので、とりあえず最初に相手の状況くらい確認しようよ、と思う。
そろそろ日常に戻り始めてる人も多いかもしれませんが、自分はまだちょっと間を置きたいです・・。
おわり
2010年1月21日木曜日
ロバート馬場のコメント評価システムへの不満の解釈
1月19日放送の「人志松本の許せない話」を見た。
ロバート馬場のYahoo!ニュースのくだり、最初は何がゆるせないのかいまいち意味不明だった。
が、何か引っかかるものがあったのでちょっと考えてみた。
まず概要。
馬場は、Yahoo!ニュースには記事にコメントが付けられること、そしてそのコメントを「そう思う/そう思わない」の選択によって評価できるシステムである事を説明。
その上で、よくある例として若手芸人やグラビアアイドルが本等を出版した際に、必ず「誰だよこれ」とコメントする奴が居り、更にその評価で「そう思う」が4000件もあった例を紹介した。
馬場「4000人キモちわる!と思って」
馬場「(ネガティブなコメントは)思ったら思っただけでいいのに、4000人も『そう思う』に乗っかって。。」
馬場「その中に200人くらい『そう思わない』という、すごい素敵な方たちがいて。。」
もうひとつ例を出す。
馬場「パンクブーブーのM-1優勝記事にはおめでとうコメントがついてて、『そう思う』が1500件位あって、『そう思わない』奴が200人位いたんすよ!なんでそこをおめでとうって言えないんだろうみたいな」
馬場「正直に。」
正直に・・?
概要ここまで。馬場の挙げた例はもう一つありましたが端折ります。
番組内では、他の出演者も皆同意のようで、最終的に馬場「あのシステムはちょっと怒りで・・、やめて欲しい」とのことだった。
反射的な感覚として、知らない芸能人に誰だよこれと言ったら「キモい」ってどういうことだよ、と。
4000件も「誰だよこれ」と思われてる人の出版が(芸能人ニュースということで)注目されていることに対する皮肉みたいなものだと思った。
が、それは置いておく。
この例のコメントとその評価を、馬場のように「嫌なもの見た」と思うか「まあまあ当然」と思うかが、ネットリテラシーによってまっぷたつに分かれる気がする。ということはつまり、Yahoo!ニュースはたくさんの人が見る事が前提であるにも関わらず、リテラシーの差によって解釈が逆になってしまうシステムで、そういうシステムとはいかがなものかと問うているのではないか。そう考えると、これは現状のコメント及びその評価システムの妥当性についての問題提起と取れる。
自分としては、もちろん記事へのコメントは当然賛成だし、コメントが付けられる以上、そのコメントの妥当性を判断する材料として評価システムも必須だと思う。これは揺るがない。
さらにYahoo!ニュースでは、コメントは記事の下のほうにあるのでスクロールしなければ見えないことや、コメントの並び順は「そう思う」が多い順になっている等、コメントの表示形式に最低限の配慮があるのは前提として。だからこそ、おしいのだと思う。
みんなネットリテラシーが高くなればいいじゃないかというのも、現実的ではないし、良いシステムを考えたい。
おそらく、ニュースの当事者・関係者が世間の反応をチェックしたいと思ったときに、衆愚化しているかもしれないコメントをどの程度真に受けていいのか、許容していいのかが分からないのではないか。もちろん芸能人だったら、エゴサーチの心得として、ある程度のリテラシーと器はあってしかるべきだと思う。
一般人の場合でもその必要があるのか。コメントをそれなりに解釈しようとしたら、そこそこ高度なリテラシーや脳内変換を要求するような表示のされ方はサービスとして不完全とは言えないか。
ではコメントの妥当性や、信頼性(内容の信頼性ではなく、見るべきかどうかという意味)はどのような評価システムによって担保されるべきなのだろうか。
コメントとそのコメントへの「よい/わるい」の評価システムを設けているサービスはすごく多いと思うのだが、大抵の場所ではネットリテラシーがある事が前提なのでそんなに問題はないと思う。そういう前提がない場所では工夫が必要だと思う。
やはり、ページランクやふぁぼったーや戦闘力のように、なんかよくわかんないけど、高けりゃいいってのは、直感としてわかりやすい。逆に「そう思う/そう思わない」のように変に口語と結びつけられると、ネガティブコメントのときのダメージが痛い。
また、コメント評価がシンプルである方が、コメント評価そのものを期待してあえてネガティブな釣りコメントする動機は減る気がする。
仮に「コメントランク」と呼ぶとして。
コメントランクが高いということは、コメントが注目されているという意味でしかなく、支持とも不支持ともその両方とも取れる。逆にコメントランクが低いということは、コメントへの不支持なのか、単に注目されてないのか区別ができない。都合の良い解釈をしやすいようにできていると言える。どんなコメントが付くにせよ、それが注目に値すべきコメントなのかを判断する助けになるのではないか。
まとめ。
- コメントとその評価システムの妥当性について。(例えば、コメントの衆愚化がコメント評価システムによって解消できるのかどうか、逆に助長されてないか)
- 期待することは、信頼性の高いコメントだけが見たい。(特にニュースへの反応をチェックしたい当事者/関係者にとってはそう)
- コメントランクの提案。
鍵は支持と不支持の当価値にして注目度とすること。無関心と不支持の恣意的混同。
以上。
2009年10月27日火曜日
ニコ生の質問募集について
ニコ生のおかげで、最近はすっかり会見ヲッチャー気取りですよ!
それはいいんですけど、質問募集~会見で質問までの流れを見て思った(つぶやいた)ことをまとめた。
んーと、ニコ生の質問募集には若干思うところがあった。
関西ローカルのちちんぷいぷいって言う番組でいってた、「社としては編集したり意見をいったりせず、ただひたすら全体を見せる」っていうのはすごい見識あるスタンスで、すばらしいと思ったんだが。
質問をするとなると募集したものとはいえ「何を聞くか」に社の意思が反映されないわけはないよね。
だからニコ動も一言論機関であると認識するということ。
あと、会見そのものは国民の知る権利の源・財産に等しいと思うので(それがいままで限られた会社・団体が独占していたことが問題だった)、せっかくオープンになったのでいろんな試みを試すのいいんだが、質問を公募する有意性を証明してほしい。
公募したら、こういう質問が一番多かったので、といって質問するのは、多分、面白くない。というか、無駄。 というようなことを思っていた。
で、実際どうだったかというと。
中継が始まってすぐに、アンケートを実施(応募のあった質問をあらかじめ3つに絞ってある)し、結果を表示。結果に基づいて質問してた。一番多かったのは、48%で「テレビとネットの違いについて」。これを質問した。
発言の概要は、まず中継への配慮(何回か前の会見で岡田大臣自らが中継用マイクを回すよう指示)に感謝を述べ、ニコ動が質問募集した質問を代読する旨を説明し、質問した。その際岡田大臣から一つだけだよと念を押される一幕もあった。
会見が終わって、有意性というのはわからないが、心配しすぎた気がした。
質問内容の絞込みがブラックボックスではあるが。これはたいした問題じゃない気がする。
まず会見では、質問の前に経緯の説明さえすれば、質問内容にかかわらず、質問しやすく&答えてもらいやすくなる。
これは別の効果も期待できる。たとえば失言狙いの質問より、失言しやすくなるかもね。
俺の杞憂というか持っていた不信感っていうのは、本質的でない事のために日本の大臣の会見を利用するな、っていう事だったんだけど。つまり情報を引き出したい意図があるわけじゃないのに、いいのかな?っていう。
- この批判を言うことができる他のメディアが存在しないこと。
- 質問によって成果が得られればそれが本質となること。(本質的か非本質的かなんていう問題にはならない。あっても柔らかいか硬いか程度。)
- どんな質問であっても質問ができる事実を享受できること。(とく視聴者が!)
会見後この3つを思って、結果俺の心配は杞憂に終わった。
1は、今までの記者会見のぬるさとかによる。2は質問内容が決定した時に、3は質問の最中に思った。
■まとめ
おそらく、質問を募集してアンケートで決定する以上、独自の鋭い質問っていうのは難しいと思う。が、「視聴者からの質問」というこれ以上ない後ろ盾というか、質問する行為の正当性があるので、行為自体への批判や排除が不可能。
ジャーナリズム的にはそこからが問題なのかもしれないが、ここでニコ動の報道スタンスに立ち返ると、この状態が完成形であっても、悪くない気がする。